オハネフ25200番台が出来る前はどうやって分割してたんだろう(´-`)

24系25形銀帯編成を走らせていた時、ふとそんなことを考えたわけです。

オハネフ25200番台は他の100番台より少し後に落成していて、大体三年ぐらいのタイムラグがあります。最初の100番台が落成して運用についた頃は200番台がなく、じゃあ基本編成と回転編成を大分や熊本で分離する時はどうしていたのか? 20系みたいに切り落としされる回転編成の連結側には緩急車が用意されなかったのか? それとも0番台やオハネフ24を連結していたのか?

調べてみると、分割部にはどうもオハネフの100番台を連続連結していたようで(;´Д`)。そういえばオハネフ25100番台は便所側エンドにもテールライトを装備しているので、機能的に方転できない片栓構造であってもオハフ50やスハフ42のように両エンドを緩急側として運用が可能だったのかもしれないですね。

にも関わらずやはり不便だってことで方転可能な両栓構造の200番台を結局作ったわけですけど、機能的に100番台のままでも良かったわけですから、ここら辺の当時の国鉄の狙いってなんだったんだろか? と素朴な疑問が沸いてくるんですよね。

回転編成は切り離された後は置いてけぼりで単独では旅客運用されないわけですから、別に便所側のエンドを向いていようが格好は悪いかもしれないけど、まぁ問題はない。もしかするとやっぱ車掌室側でないと入替などの雑務が不便だったのか? 

そういうことを走らせながら考えるのもまた一興すなぁ(´ー`)。そういえば去年末に出たKATOの「24系ゆうづる」も中間オハネフの同一方向連結でした。こちらはドア位置を揃えたいという思惑から行われた施策だったようですが。